嘲笑についてとりあえず、学生らしいというか、ワカモノらしいコトから話しはじめようかと思って。『嘲笑について』 ちょっと話してみましょうか。 私が思うに、今の社会は嘲笑だらけだ。どこに行っても嘲笑がくっついてくる。 くすくす、笑い声。 人を指差す人差し指。 おもちゃにされる、人。 何がそんなにおもしろいのか、私にはわからない。とても理解しがたいことである。だって、笑われたら誰だって不愉快でしょう? 相手の気持ちを考えてみたら、そんな簡単に笑えないでしょう? あなただって笑われたら不愉快なくせに。 私は嘲笑というものが嫌いだ。嘲笑われるのも嘲笑うのも。嘲笑うくらいなら睨んで暴言吐いてケンカふっかけたい。その方が白黒はっきりつくし、相手だって真っ向から言われた方が言い返せるに違いないと思う。言い返せないような人は眼中にないし。 でも、そんなこと言ったって実際に私は嘲笑しているのだ。 嘲笑うのも嘲笑われるのも嫌いだ、と言ったけど。 どっちを取るかと言われたら嘲笑う方がいい。嘲笑われることはつらいし、惨めだ。ハブかれるよりつらいと思う。 だから私は、嘲笑う方にいる。嘲笑われないために。 どうせこんなことも自己弁護にしかすぎないけれど。 そうして嘲笑っているうちに、なんだかわかってきたのだ。 嘲笑うとういう行為の魅力が。なぜみんながそれにとり憑かれるのかが。 まず第一、優越感。 他人を嘲笑うことで相手よりも自分を上だと錯覚し、見下す。がんばることをしなくても優位にたてるのだから随分お得だ。たとえ周りがなんと言おうが、自分が優位だと思い込んでいればそれが自分にとっての事実なのだ。 第二、遊び。 最近の子供たちというのはひどく不器用なのだろうと思う。もちろん例外もごろごろいるが、多くの子供たちが不器用だ。それは手先がどうのこうのとか、そんな問題ではなく。 共通の楽しみを見つけられないでいるのだ。楽しく話す内容を見つけ出せていない。見つけようともしない。ただ、そこにある“材料”だけを用いて楽しもうとする。 街行く人。クラスの人。母親、父親、トモダチ。 それはグループの中で集まる人数が多ければ多いほど、より不器用になる。対象物が多くなれば共通のことを探すのがより難しくなるのは必須なわけで。結果的に、嘲笑や悪口にいたるのだ。他になにも見えないから。 先にあげた二つの事柄は、嘲笑する側を正当化しているように聞こえるかもしれない。 でも、誰が悪いとか、そんなの決められないでしょう? って話はまた今度することにしましょうか。さらに長くなってしまいますし。 とにかく。二つの理由をあげてみたが、そんなの相手の気持ちを考えてみればそうにかなることだろうと思う。つまり一番の問題は“相手のことを思いやれない人が増えている”ということなのだ。 私のいた小学校では相手のことを思いやれる子、というのを全部の教室に掲げていたが、どうやらそれも意味なく終わってしまったようだ。意味をなさなかった努力をしていた先生方にちょっと同情できてしまう。 “相手のことを思いやる。”これはたぶん簡単そうに見えてとても大きな問題だろう。 これさえできれば世界平和実現も夢ではないだろう。戦争だって、おこらない。 自己中人間増加の只中で、“相手のことを思いやる”ということは、今の人類の共通の課題ではないかと思う。 ……なんて、教科書みたいなお堅いコト言ってみたり。 でも本当にそう思うんですよ。 end |